ヘレスのワインに関する最初の記述では、ヘレスのぶどうは紀元前1100年頃にフェニキア人によってこの地域にもたらされたといわれています。現在ヘレスがある地域をフェニキア人はセラと名づけましたが、このヘラから商売人のフェニキア人たちはワインを造りだし、ローマをはじめとする地中海地域全体に広めていきました。
紀元前138年頃、エスシピオン・エミリアノがベティカ(現在のアンダルシア地方)を平定し、ローマの支配が始まりました。そしてセレット(ローマ時代のヘレスの呼び名)地域と本国の首都ローマとの間の交易の流れも重要になりました。すでに“セレットのワイン”の評判は国境を越え、ローマだけでなくローマ帝国の多くの地域で評判を得ていました。
711年、スペインではアラブの支配が始まり、ヘレスでは5世紀以上も続きました。この間ずっと、シェリシュ=アラブ人がヘレスにつけた名前=は、コーランで禁止されていたにもかかわらず、ワイン生産の重要な中心地であり続けました。干しぶどうの生産と医療目的のアルコール確保がある意味でぶどう栽培とワイン生産を維持する口実になっていたのです。
1264年に賢王といわれたアルフォンソ10世がヘレスを奪回したことによってヘレスのワインは180度転回します。この国王はヘレス・デ・ラ・フロンテラに自分のぶどう畑を持ち、自身で手入れをしていました。
ヘレスのワインの輸出は増加し続け、ヨーロッパだけに留まりませんでした。アメリカ発見にともなって、ジェノバの商人たちは新大陸との交易を行うためにヘレスのワイン産地に居を定めました。こうしたジェノバの商人たちはマゼランのためにヘレスのワイン=シェリーを417袋と253樽買い、旅立たせました。そのためシェリーが世界を一周した最初のワインだといえるのです。
新大陸におけるシェリーの販売は海賊行為によって停滞させられました。船隊の積荷は掠奪され、ロンドンで売られました。最も大量にワインを掠奪したのは、フランシス・ドレイク卿の船隊にいたマーティン・フロビッシャー卿で、1587年にカディスを襲い、ヘレスを荒らし、ワインを3000樽奪っていきました。この掠奪品がロンドンに着くと、イギリスの宮廷ではシェリーが流行になりました。当時シェリーが流行したことに触発され、ウィリアム・シェークスピアはリチャード三世、ヘンリー六世、十二夜、ウィンザーの陽気な女房たち、ヘンリー四世など多くの作品でしばしば言及しています。
これほど長く変化の多い歴史を経た18世紀末においても、まだこの地域で造られていたワインは今日シェリーとして知られているものとは大変違ったものでした。ぶどう栽培者に支配されたワイン関係業者のギルドは異なる収穫年のワインを貯蔵することを規則で特に禁じていたため、ワインを熟成することはできませんでした。
1775年、出荷業者の訴訟が起こり、何10年もかけた後、ギルドによる厳しい活動制限規則が消滅することによって終結しました。これがワインの製産と交易、そして最も重要な、この地域のワインのアイデンティティを決定的に形作る強い後押しになったと思われます。
シェリーの需要は19世紀を通して増加の一途をたどり、多くのイギリス人、アイルランド人、フランス人の商人たちがこの地域に自分の商売を定着させる決心をしました。1933年、原産地呼称統制委員会が生まれ、それ以来、世界で最も重要な歴史的ワインの一つであるシェリーを守るため、看視を続けています。